中国地方瀬戸内海に面した岡山県の南西部にある倉敷市。
倉敷市は、48万人が暮らすまち。倉敷市には6つの地区があります。
美観地区や大原美術館などで知られる倉敷地区。
瀬戸内海に面した、児島地区、水島地区、玉島地区。
平成の大合併で倉敷市となった、市北部の真備地区、船穂地区。
瀬戸内海に面する児島・水島・玉島地区の3つの地区にまたがる形で「水島臨海工業地帯(水島コンビナート)」はあります。
その広さは、2,514ha。倉敷市の総面積の7%を占めています。
水島コンビナートの中心ともいえる水島地区は、さらに3つのエリアに別れています。
歴史があり、レンコン畑やゴボウ畑が広がる「連島エリア」
干拓により広がった、農業が盛んな「福田エリア」
戦後形成されたまちで、主要施設が集まる「水島エリア」
そして水島地区には、約9万人が暮らしています。
連島エリアには、源平の合戦で、那須与一が射った矢が流れ着いたという伝説のある「宝島寺」があります。
連島は元々、備前国児島郡に属す「都羅島」という島だった地区で、こうした古くからの歴史があります。
江戸時代から、現在の福田、連島エリアの干拓が進み、どんどん陸地が広がっていきました。
大正時代には、岡山県の三大河川の1つ「高梁川」の洪水対策として、2本に別れていた下流部を1本化することで土地ができました。
それが、現在の水島エリアです。
つまり、水島地区の大半は、干拓や埋め立てでできた土地と、昔の瀬戸内海に浮かぶ島の部分からなりたっているといえます。
戦前は、浅海漁業とイ草やレンコンなどの生産で栄えた風光明媚な農漁村地帯でした。
戦時中、水島地域が転機を迎えました。
1943年に埋め立てにより広がった河口部に、三菱重工業(株)航空機製作所岡山工場(現:三菱自動車工業(株)水島製作所)が誘致され、操業がはじまりました。
戦後になると高度経済成長政策の下、岡山県の工業振興の要を担って新産業都市が整備され、先端技術の粋を集約した我が国を代表するコンビナートが形成されました。
岡山県は、農業県から工業県への脱皮を図ろうと、「太陽と緑と空間の街づくり」をキャッチフレーズに、水島臨海工業地帯(水島コンビナート)を形成していきました。
しかし、それと引き換えに、おびただしい公害問題が発生し、多くの人命や健康、豊かな自然環境や歴史・文化が損なわれていったのです。
その後、国による公害の救済法である公害健康被害補償法によって、水島を中心とした地域は公害地域として指定されます。
1975年から1988年までの間に、4,000人近くの人が公害患者として認定されました。
ところが数年後、「公害は終わった」の号令のもと公害行政の後退がはじまります。
患者の生きる権利が奪われると、やむにやまれず1983年、公害患者らが、コンビナート企業8社を被告に提訴。
その後13年の長き係争の末、やっと1996年12月、和解が成立しました。
和解の中では「水島地域の生活環境の改善のために解決金が使われる」ことが両者の合意となりました。
「子や孫によりよい生活環境を手渡したい」とする公害患者らの願いに応えるために、また新しい環境文化を創生しまちの活性化に貢献するために、そして二度と公害をおこさないために、住民をはじめ行政・企業など、水島地域の様々な関係者と専門家が協働して、現在活動を行っています。
石油精製・石油化学の工場をはじめ、鉄鋼・自動車・食品・発電等の工場が立地する水島臨海工業地帯(水島コンビナート)。
広さは、2,514ha。倉敷市の総面積の7%を占めています。事業者数は、251。従業員数は24,623人。
最盛期の従業者数は39,795人(1972年)。現在はその約6割になっています。
水島臨海工業地帯の製造品出荷額は3兆128億8,200万円であり、岡山県全体の約46%を占めています。(2009年工業統計調査速報値)
全国の市町村の製造品出荷額を比較すると、倉敷市は第5位です。(2008年工業統計調査確定値)
工業地帯の海上輸送を担う水島港は、2003年、全国で23番目の特定重要港湾の指定を受けました。
取扱貨物量は全国5位となっています(2008年)。
水島港は企業の専用岸壁の利用が圧倒的に多く、工業港の性格の強い港です。
水島地区では、工業だけではなく農業も盛んです。
高梁川の廃川地の土壌を利用してのゴボウの栽培や、干拓地でのレンコン栽培が行われています。また、ショウガの栽培なども盛んです。
水島地区には、生産緑地として593ha(2000年調べ)の農地があります。
こうした農業が残っているのは、他の工場地帯とは大きく異なる点です。
水島臨海工業地帯からの汚染により公害が発生しました。特に大気汚染に多くの公害患者が発生しました。
まず大気汚染公害とは、そして倉敷市の状況についてみてみましょう。
日本では、四大公害とよばれる「水俣病」「イタイイタイ病」「四日市ぜんそく」「新潟水俣病」をはじめとして、多くの公害が引き起こされてきました。特に、1945年の終戦後、重化学工業を軸とした高度経済成長政策が全国で進められ、それに伴い水質汚染、土壌汚染、大気汚染、騒音・振動、食品・薬品公害が全国で多数発生しました。
その中でも大気汚染公害は、工場などの排煙(固定発生源)、自動車の排ガスなど(移動発生源)に含まれる有害物質による大気汚染が激甚化し、それらにより健康を害する公害で、日本全国で発生しました。公害病の救済法である公害健康被害補償法で認定された大気汚染公害患者は、1988年には全国で約10万人以上にもなりました。
大気汚染の原因となる物質として一般的に知られているものには、浮遊粒子状物質、二酸化硫黄、二酸化窒素などがあります。他にも揮発性有機化合物(VOC)、ダイオキシンなど多岐にわたります。
水島地域における公害健康被害補償法による患者の認定は、1975年から行われ、約4千人にのぼります。1988年3月に指定地域解除により新規認定が行われなくなり、現在では1350人となっています(2010年3月末)。そのうち、65歳以上が750人と半数以上をしめ、公害患者の高齢化が進んでいます。
公害健康被害補償法による大気汚染公害の指定地域は、全国9都府県にわたります。
大気汚染公害裁判は、有名な四日市をはじめ、倉敷を含めた全国7箇所(千葉、東京、川崎、愛知、大阪(西淀川)、尼崎、倉敷)で行われました。
大気汚染物質としてよく知られているSO2(二酸化硫黄)は、環境基準の設定や企業の排出量の総量規制の導入などにより、現在、右肩下がりに減少しています。
一方、NO2(窒素酸化物)は、環境基準の設定や総量規制により減少傾向にありましたが、1978年の環境基準の緩和により、再び増加に転じ、近年は旧環境基準(一時間値0.02ppm以下)未達成の状況にあります。
光化学オキシダントについては一時期減少傾向でしたが、近年は増加傾向にあります。市内14ヵ所で濃度を測定していますが、全ての測定局で基準を達成できていません。
有害大気汚染物質であるベンゼンの値も、測定を始めてからずっと高い状態が続いていましたが、2009年度にやっと環境基準が達成した状況です。
まだまだ、水島の大気環境は充分に改善されているとはいえません。