- 名称
- 公益財団法人 水島地域環境再生財団
- 設立
- 2000年3月 岡山県許可(2011年11月より公益財団法人へ移行)
- 役員・評議員
- 理事・監事・評議員 >
- 設立趣意書
- 設立趣意書
- 適格請求書発行事業者登録番号
- T1260005008895
学び、伝え、繋ぎ、
水島の豊かな未来を育む。
みずしま財団は、地域から、学び、伝え、人々をつなぎ、
水島の公害から、持続可能な未来を、地域とともに新しい価値をつくりだすことを目指しています。
写真/髙田昭雄
写真/髙田昭雄
写真/髙田昭雄
写真/髙田昭雄
こうしたなか、コンビナート企業8社を被告に、公害病認定患者らは倉敷大気汚染公害裁判をおこない、13年の長きにわたる係争を経て、1996年12月、和解が成立。和解の中で「水島地域の生活環境の改善のために解決金が使われる」ことが両者の合意するところとなり、和解金の一部を基金に、みずしま財団が設立されました。(2000年3月:岡山県許可、2011年11月:公益認定)
子や孫によりよい生活環境を手渡したいとする公害患者らの願いに応えるために、また新しい環境文化を創生しまちの活性化に貢献するために、そして二度と公害をおこさないために、住民を主体に行政・企業など、水島地域の様々な関係者と専門家が協働する拠点として「水島地域環境再生財団」は活動をおこなっています。
写真/髙田昭雄
写真/髙田昭雄
写真/髙田昭雄
写真/髙田昭雄
- 水島の生い立ちと公害 -
水島は、戦争のために作られた新しい街です。アジア・太平洋戦争の末期に、海軍の爆撃機・戦闘機を製造するため三菱重工業水島航空機製作所(1943年操業開始)が作られたことで出現した街なのです。空襲を受けて工場は破壊されましたが、東高梁川の廃川地に作られた職員工員住宅は空襲を免れ、戦後に住宅を失った人や植民地などから引き揚げてきた人たちが集まってきました。
岡山県は、1953年度以降、水島港に大型船舶が入れるように海底を浚渫し、発生する浚渫土砂で海面を埋め立てて工業用地を造成しました。その工業用地に石油関連企業や発電所、製鉄所などが誘致されてコンビナートが建設されます。1964年には岡山県南地区は新産業都市に指定され、水島は新産業都市の優等生と言われるほどに発展していきました。
コンビナートができたことで、地域の環境が変化してきました。魚が湧いて出てくると言われた海が変化して、1961年ごろから水島沖でとれる魚が石油を含んだ工場排水の影響で臭くなり、食べられなくなりました。大規模な埋め立てにより、餌場や産卵場となっていたアマモ場がなくなり、豊かな漁場は失われてしまいました。農業のために干拓された福田や連島でしたが、1964年ごろには大気汚染によって梅やスイカ、ごま、いちじく、ぶどう、みかん、柿の実が実らなくなり、稲作の裏作で耕作されていたイ草が先枯れしてしまい、商品として流通できなくなりました。元来豊かな地域であった水島で、生業である農業や漁業に影響が出てきたのです。
水島コンビナートで起きた大事故に、1974年12月18日に起きた三菱石油(現:ENEOS)水島製油所の重油流失事故があります。石油タンク横に取り付けられていた直立階段の基礎部分が陥没してタンクの底が破損、階段が倒れて防油堤も破損し重油が海上に流れ出た事件です。約7500〜9500キロリットルの重油が流出し、西は笠岡市沖、東は紀伊水道にも及び、瀬戸内海のほぼ東半分を重油が覆い尽くしてしまったのです。漁業への影響も大きく、瀬戸内海の回復までに大変な労力と時間がかかった大事件となりました。これもコンビナートが建設されたことによって引き起こされた災害でした。
水島コンビナートの製鉄、石油精製・石油化学の工場や発電所から硫黄酸化物などの大気汚染物質が排出しました。1972年から1973年にかけて水島地区の二酸化硫黄の濃度がピークとなり、大気汚染物質は農作物だけでなく、人間の呼吸器を損傷し、気管支ぜんそくや慢性気管支炎などの病気を引き起こしました。倉敷市における公害健康被害補償法による認定者(公害患者)は総数で3,888名になります。
工場に隣接している呼松地域では化成水島(現:三菱ケミカル)が試験操業した際に20メートルの炎が連日燃え上がり、住民が工場に抗議のデモを行いました(1964年7月22日、呼松エピソード)。また1972年9月10日には、公害によって病気になった人たちが集まって倉敷市公害病友の会(現:倉敷市公害病患者と家族の会)を結成し、病気の補償と環境の改善を求めて活動を開始します。1983年にはコンビナート企業8社を相手に倉敷公害訴訟を提訴し、公害患者の292人が原告となりました。1994年の地裁判決で工場の公害の責任が認められ、1996年に和解に至りました。これを踏まえ、地域の生活環境の改善などを実現するために、解決金の一部を基金として2000年に水島地域環境再生財団が誕生しました。
水島地域環境再生財団
理事長 石田正也
公益財団法人水島地域環境再生財団(通称みずしま財団)の設立は13年間にわたる倉敷公害訴訟の和解(1996年12月26日)によって成されました。
倉敷大気汚染公害裁判では、提訴した原告全員を大気汚染公害によって健康被害を受けた患者と認定し、損害賠償の支払いを被告企業に求めました。その後の手続を経て和解がおこなわれ、和解金の一部を地域の環境再生に使用するとの協定に沿って財団設立となったのです。
みずしま財団は、裁判をたたかいそして和解により財団をつくった原告のみなさん方の「子や孫の世代に同じ思いをさせたくない」という思いを引き継ぎ、人々が健康に暮らしていくことができる地域づくりを目指しています。大気汚染公害に苦しんだ多くの患者さんや地域住民のこの思いは、財団の環境問題を考える視点になっています。
現在、環境問題は人間の経済活動の拡大の中で、財団も活動の基本としている地球温暖化問題や海ゴミ問題など特定の地域の問題から地球規模の問題へと拡大しており、これらの問題は多くの世界の人たちとの連携や協働のなかで解決するしかない課題となってきました。そして、その中で、多くの人たちとの協力、協働をすすめるためには、問題意識を共有するために環境問題の学習が必要となっています。
みずしま財団は環境問題の改善のため、創立以来多くの団体や多くの人たちとの協力・協働で培ってきた活動を更に大きく展開しようとしています。
今後いっそう、水島をはじめ多くの地域の皆様と連携し、暮らしやすいまちづくり(地域の環境再生)を中心とした活動を行うことで、倉敷公害訴訟に立ち上がった患者さんたちの、「子や孫の世代には同じ思いをさせたくない」という思いの実現のために努力いたします。
皆様のご支持とご協力をお願いいたします。
みずしま財団は、地域から学び、歴史を伝え、人々をつないで、健康で豊かなまちをつくりだす、
環境再生・まちづくりのセンターです。
地域の研究機関としての役割
地域の課題を明らかにして、その解決にむけた調査研究、提言、体制作りなどをおこないます。
地域の課題を明らかにして、その解決にむけた調査研究、提言、体制作りなどをおこないます。
人と人、組織と組織をつなぐ支援組織
地域の人材養成をおこなうとともに、人々の思いや組織の力をつないで新しい価値や活動・組織をつくりだす支援をします。
地域の人材養成をおこなうとともに、人々の思いや組織の力をつないで新しい価値や活動・組織をつくりだす支援をします。
公害経験の継承と被害者支援
大気汚染公害の経験を伝え,同じ過ちを繰り返さないよう国内外に情報発信をしています。また,公害被害者のADL・QOLの維持・向上などを支援します。
大気汚染公害の経験を伝え,同じ過ちを繰り返さないよう国内外に情報発信をしています。また,公害被害者のADL・QOLの維持・向上などを支援します。
公害環境学習
国内外からの視察受け入れや、地域の資源を活用した公害・環境学習をおこないます。
国内外からの視察受け入れや、地域の資源を活用した公害・環境学習をおこないます。
倉敷公害訴訟和解 20 周年にあたって作成された、2007-2021年のみずしま財団 中・長期計画(2017(平成 29)年 3月4日)です。
水島地域をみずしま財団が目指す“より良い地域”に近づけるために、みずしま財団が取り組むべき課題と当面の事業について検討したものです。
「水島地域の再生のために-現状と課題-」(2006年)で明らかにした課題の達成をめざしています。
みずしま財団は、正式名称を「公益財団法人水島地域環境再生財団」といい、2000年3月に、水島地域の環境再生・まちづくりの拠点として設立されました。
岡山県倉敷市水島地域は、かつて、浅海漁業とイ草や蓮根などの生産で栄えた風光明媚な農漁村地帯でした。戦後、高度経済成長政策の下、岡山県の工業振興の要を担って新産業都市が整備され、今や先端技術の粋を集約した我が国を代表するコンビナートを形成しています。
「太陽と緑と空間の街づくり」のキャッチフレーズのもと、コンビナートは形成されていきましたが、それとは裏腹に、おびただしい公害問題をひきおこし、多くの人命や健康、豊かな自然環境や歴史・文化を損なう事態が進行しました。